(今のところ)人生で一番楽しかった時とは③
どうも! み(仮)です!
前回&前々回で、当時の私を支えてくれた2本柱について書き出しました。
今回はなぜ「その時」が「人生で一番楽しかった時」となってしまったのかを自己分析してみます。
楽しかった=忙しかった?
2015年10月頃から2016年3月頃の自分に何があったのかを思い出してみると、
中学の3年間の中で
・一番成績が良かった時期
・塾も一番大変だった時期
・友人関係が一番不安定だった時期
・一番友人と遊んでいた時期
・部活での立場が一番低かった時期
ざっとこんな感じでしょうか。 つまりはあらゆることがいろいろ押し寄せてきて、非常に忙しかったのです。 この時期はほんとに成績上位勢と張り合えるくらいの学力があり、自転車で地元を駆け回ったのもその人たちと行ったのがほとんどでした。
塾は中1と中2で個別指導の塾に通っていて数学だけ受講していたのですが(講師はなぜか塾長でした)、中2スタート時に変わった塾長がなかなか厳しい人で、特に秋ごろから1週間でプリント10枚とか平気で出してくるようになりました。 他にやることも多かった中で授業当日になんとか終わらせていました。 でもそれのおかげでその時の数学はかなり良い点をとれていたと今思います。 あの塾長にあまり良いイメージは残っていませんが、これについては感謝したいです。
前々回の記事の冒頭に書いた通り、中2の最初はかなりの陽キャを演じていました。 転機はキャンプの時。 キャンプファイヤーでトーチトワリングをやると聞き、「せっかくならやるかぁ!!」と参加することに。 しかし知り合いはクラスメイトこそいたものの、顔と名前だけ知っている程度の人たちばかりでした。 練習を重ねていくうちに仲良くなり、いつしか他のクラスの人たちとも爆笑しあうほどになっていました。 トーチトワリングは成功に終わり、そりゃあもう感動ものでした。
ここで気づいたのです。 陽キャを無理して演じていて楽しいか、と。 もちろん陽キャ軍団の一員であったときもそれなりに楽しかったですが、本来の自分では無かったので悩み始めました。 そこから次第にクラスで暴れている人たちとは距離を置くようになり、自分の立ち位置について悩んだ末に、とある日の昼休みに教室でその陽キャの人たちが勢ぞろいの中で泣いてしまいました。 今のところしっかり泣いたのはこれが最後です。
救いだったのは1人で泣いていたわけでは無く、隣に肩をたたいて励ましてくれた友人がいたこと。 その人もなかなかの暴れん坊でしたが、中2の男子の勢力図は陽キャ軍団VSその友人&その周りでバチバチに対立していたので、「暴れる」のベクトルが違いました。 友だち思いで、深い話も気軽に話せるような人でした。 ちなみにトーチトワリングで一緒に頑張った人たちはその友人の友達でした。
キャンプ以降はその友人たちと行動を共にする機会が圧倒的に増え、中学卒業後も、会う約束とかはしてないのにたまに会います(笑) 最寄りのコンビニでその友人がバイトしていたので、そこでもたまに会えました。
一番驚いたのが浪人生の時。
予備校が名駅だったのですが、名古屋駅で降りて改札を抜けようとしたときに「み(仮)じゃん!」って声をかけられたのです。 振り向いたらその友人でした。 マスクをしていたのによく分かったな~って会話を軽くしたのを覚えています。
中学を卒業して4年以上が経過していてもしっかり覚えてくれていた、僕はそれが一番嬉しかったです。 成人式に来ていなかったので会えなかったのが残念ですが、またどこかで声をかけられることを密かに期待しています(笑)
僕は中学生の時は軟式野球部でした。 僕のことを知っている人は「まさかお前が…?」と思うことでしょう。
中2の時に夏の大会で中3が引退し、新体制で部活がスタートしました。 僕は数少ない左利きだったのでファースト(一塁守備)を任されることに。
しかし数日後。 捕球ミスで左薬指第一関節の腱が切れ、そのまま病院送り… 腱が癒着し、指を曲げるリハビリも終えたときには既に10月。 更に右股関節のリハビリまでやっていた結果、完全復帰は12月でした。 当然、この間の練習とえげつないほど組まれていた練習試合は全部出ていないので、同学年はおろか後輩にも圧倒的な差をつけられてしまいました。
当然後輩からもバカにされ、部活でのヒエラルキーは最底辺でした。 練習試合に出れるようになったのは中3の5月でした。 そこからは「代打の神」と呼ばれるほど、代打出場時の打率は高かったです。 練習試合ではありましたが代打ランニング本塁打も1本打ちました。 最後の大会が終わったときはそれが意外と(良い意味で)ネタにされ、ケガから戻ったときに相手すらしてくれなかった同学年の人が卒業前の部活挨拶の際に僕が後輩に話した後に握手をしてくれたのがしっかり記憶に残っています。
以上の通り、毎日が非常に忙しく、楽しかったことも辛いこともたくさんありました。 それにプラスしてコンビニやラジオの存在がありました。 だからこそ、その時の記憶が多く脳に残っているのだと思います。
美化され続ける、あの頃の記憶たち。
「あの頃」以降も忙しくて大変だった時期や楽しかった時期、辛かった時期は確かにたくさんありました。 でも「あの頃」には勝てませんでした。
僕は中3に塾を変え、自分の学力よりも高い高校に受かってしまいました。 高1の初っ端から勉強についていけなくなり、また生徒のレベルも高かったのでなかなか友人もできず。 今も頻繁にやり取りしている2人は、高2でクラスが同じになってからの付き合いで、僕を写真バカへと生まれ変わらせた人たちです。 しかし深いつながりができたのはほんとにその2人くらいで、なんとなく高校を卒業してしまいました。 結局何かに真剣に打ち込むこともないまま…
浪人生の時は高校の時よりは記憶に残っています。 高校卒業直後に倒れてから常に体調が悪い中、ほぼ毎日予備校に通い続け、体調が比較的良い日には買い食いをする。 スーパーマーケットに行く楽しさや今も良く行き続けている場所にも出会えました。
それがこの場所です。 ここについてのエピソードもまたいつか記事にしたいですね。
また、結果的には不合格でしたが、県外の国公立大学を受験するために一人旅をしたのもいい思い出です。
でも「あの頃」よりは記憶に残らなかった。 というよりは、「あの頃」の記憶が、当時ラジオから聴こえていた曲を聴くことによって何度も脳に上書きされ、どんどん美化されていってしまった、と言った方が正しいのかもしれません。 まあ「あの頃」はスマートフォンも持ってなければインターネットを使うこともほとんどなかったので、より鮮明に残っているのかもしれません。 いわゆる「思い出補正」ですね。
「あの頃」とそれ以降の圧倒的な違いは「記憶に残っている曲の数」、「心の余裕」の差だと思っています。 今でも「あの頃」の曲を聴くたびに美化されていきます。 たぶんこれは良くないことです。 どんどん「あの頃に戻れたら」という気持ちが強くなってしまっているのは、今後の人生に影響が出かねないと感じているからです… ちなみに浪人生の最後の方の記憶もだんだん美化されてきてしまっています。
考えが少しだけ変わり始めた、大学1年生。
では大学生である今はどうなのかと言われたら、普通に楽しいです。 浪人生の時はコロナの影響もあり、予備校のスタッフの人、講師の人としか話をしていませんでした。 なので元から無かったコミュ力は更に消えていました。
大学生になって、いろいろな束縛から解放されて気が楽になっているのも大きいですが、一番大きいのは今一番没頭している趣味である写真、そして写真部の存在。 究極のコミュ障の解決策の一つとして、大学では「僕=カメラバカ」というのを自分からアピールするように心掛けているので、写真についての相談や、写真を始める際にどのような機材を買えばいいのかといった相談をしてくれる人ができたのが嬉しかったです。 僕は素人なので「的確なアドバイスができているか」と言われたら微妙なラインですが…
写真部の存在は大きいです。 多分今年度だけで過去4年間で笑った回数を軽く超えています。 まあ写真部についての話は長くなりそうなので、また追々記事にしようと思います。
(順調に行けば)あと3年で就職。 その後の人生のためにも、「あの頃」の美化を止めて「新たな自分」にならなければならないと感じて日々を過ごしている次第です!
ではでは~!