過去と今の振り返り・・・

趣味のことだったり思ってることを隠さずに綴ったり

僕と写真の出会い②(高校生~①)

どうも、み(仮)です。

 

生きてました~

 

最後の更新から早2か月、さてこの記事用の写真すらもつい最近まで撮らずに何をしていたのでしょうね~とかいう話はさておき、2か月振りに前回の続きを。

簡単に言えば、親の外出規制がかなり緩和されたことで何度も旅をしたりしていたわけですけどね。

syumigatari-1.hatenablog.com

↑ほぼ2か月前に書いた前回の記事はこちらから!

 

一眼レフに手を出してしまった15歳のあの頃。

 

中学生の僕はどこにでもいる(?)中学生で、写真からも、他の趣味からも離れて生活を送っていました。 つまり僕の中の歯車が狂い始めたのは…

 

 

高校生からです。

 

 

中学卒業後にスマホを与えられ、それまでの「僕」は遠い記憶の彼方へと飛んでいきました。 そのスマホについては次回やりますが、今回は前回の最後で「ヤツ」と書いたモノ…

 

それは…

 

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このカメラ。

 

このカメラの正式名称は

EOS Kiss X4

というCanon一眼レフカメラで、我が家には昔から棚に鎮座されていた一眼レフカメラです。 小学生の頃からあったと思うので、おそらく発売間もない頃に父親が買ったものだと思われます。

 

コンデジって便利なんですけど、家にあったコンデジはかなり古いだけあって、画質はやっぱり良くはないんですよね。 写真をろくに撮ってないのに画質にはうるさい人間だったので(今もそうかw)、たまに使うようになりました。

 

しかし一眼レフの使い方なんて(コンデジすらまともに扱えていなかったのに)分かるはずもなく、非力の極みだった僕は上の写真の組み合わせで重いと感じていたため、割と早い段階でスマホに移行しました。。

 

ちなみに今は空気レベルに軽く感じます。 なんででしょうね~(棒)

 

で、高3に上がるころにスマホの画質に満足できなくなり、再びこのカメラを握ることに。 以降大学生になるまでのパートナーとなっていくわけです。

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(2019年3月撮影)

ただ今見返すと、さすがは一眼レフ、良い色の写真を吐き出してくれるわけですよ。 もちろん今となっては、お世辞にもあまり良い性能を有しているカメラとは言えないのですが(今のカメラの性能がバケモンであるとも言えますが)、普通に見る分には全然問題なく運用できるカメラだと思っています。

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(2019年11月撮影)

このカメラは動体には滅法弱いし、暗い場所に強いカメラでもありません。 でもレスポンスは悪くはなかったです。 「その時」を綺麗に記録するカメラとして至る所で活躍してくれました。

 

 

 

・・・と、今までの文章を見て、「今は全くこのカメラを使ってないんでしょ?」と思ったそこの貴方。

 

 

 

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撮ってますよ、ええ。(2022年3月撮影)

 

 

 

というのも、僕は現在このカメラを含めて3機の一眼レフカメラを所持しているわけなんですが、このカメラだけセンサーの仕組みとかが違ってて(ちなみに3機ともCMOSセンサーです)、悪く言えば他の2機よりも一世代古いカメラ、良く言えば3機の中で一番Canonらしい色で撮れるカメラなんです。

 

また、3機の中で一番長く行動を共にしてきているカメラなだけあって、カメラも僕の撮影意図に応えてくれるような感じがするのです。 他の2機とは所持期間が圧倒的に違う訳で、単に「古い」だけのカメラでは無く、写真を撮るうえでの苦楽をも共にしてきたカメラなんです。

 

 

 

・・・

 

 

 

とかいっておいて、このカメラを使ったのは直近6か月で2回だけなんですけどねwwww

 

ただ、撮っていてやはり楽しいカメラであることは事実。 使用頻度を増やしていければ!!!

 

 

 

次回に続きます。 たぶん2か月後なんてことはないと思いますが()

 

 

 

ではでは~!

僕と写真の出会い②(高校生~①)

どうも、み(仮)です。

 

生きてました~

 

最後の更新から早2か月、さてこの記事用の写真すらもつい最近まで撮らずに何をしていたのでしょうね~とかいう話はさておき、2か月振りに前回の続きを。

簡単に言えば、親の外出規制がかなり緩和されたことで何度も旅をしたりしていたわけですけどね。

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↑ほぼ2か月前に書いた前回の記事はこちらから!

 

一眼レフに手を出してしまった15歳のあの頃。

 

中学生の僕はどこにでもいる(?)中学生で、写真からも、他の趣味からも離れて生活を送っていました。 つまり僕の中の歯車が狂い始めたのは…

 

 

高校生からです。

 

 

中学卒業後にスマホを与えられ、それまでの「僕」は遠い記憶の彼方へと飛んでいきました。 そのスマホについては次回やりますが、今回は前回の最後で「ヤツ」と書いたモノ…

 

それは…

 

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このカメラ。

 

このカメラの正式名称は

EOS Kiss X4

というCanon一眼レフカメラで、我が家には昔から棚に鎮座されていた一眼レフカメラです。 小学生の頃からあったと思うので、おそらく発売間もない頃に父親が買ったものだと思われます。

 

コンデジって便利なんですけど、家にあったコンデジはかなり古いだけあって、画質はやっぱり良くはないんですよね。 写真をろくに撮ってないのに画質にはうるさい人間だったので(今もそうかw)、たまに使うようになりました。

 

しかし一眼レフの使い方なんて(コンデジすらまともに扱えていなかったのに)分かるはずもなく、非力の極みだった僕は上の写真の組み合わせで重いと感じていたため、割と早い段階でスマホに移行しました。。

 

ちなみに今は空気レベルに軽く感じます。 なんででしょうね~(棒)

 

で、高3に上がるころにスマホの画質に満足できなくなり、再びこのカメラを握ることに。 以降大学生になるまでのパートナーとなっていくわけです。

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(2019年3月撮影)

ただ今見返すと、さすがは一眼レフ、良い色の写真を吐き出してくれるわけですよ。 もちろん今となっては、お世辞にもあまり良い性能を有しているカメラとは言えないのですが(今のカメラの性能がバケモンであるとも言えますが)、普通に見る分には全然問題なく運用できるカメラだと思っています。

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(2019年11月撮影)

このカメラは動体には滅法弱いし、暗い場所に強いカメラでもありません。 でもレスポンスは悪くはなかったです。 「その時」を綺麗に記録するカメラとして至る所で活躍してくれました。

 

 

 

・・・と、今までの文章を見て、「今は全くこのカメラを使ってないんでしょ?」と思ったそこの貴方。

 

 

 

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撮ってますよ、ええ。(2022年3月撮影)

 

 

 

というのも、僕は現在このカメラを含めて3機の一眼レフカメラを所持しているわけなんですが、このカメラだけセンサーの仕組みとかが違ってて(ちなみに3機ともCMOSセンサーです)、悪く言えば他の2機よりも一世代古いカメラ、良く言えば3機の中で一番Canonらしい色で撮れるカメラなんです。

 

また、3機の中で一番長く行動を共にしてきているカメラなだけあって、カメラも僕の撮影意図に応えてくれるような感じがするのです。 他の2機とは所持期間が圧倒的に違う訳で、単に「古い」だけのカメラでは無く、写真を撮るうえでの苦楽をも共にしてきたカメラなんです。

 

 

 

・・・

 

 

 

とかいっておいて、このカメラを使ったのは直近6か月で2回だけなんですけどねwwww

 

ただ、撮っていてやはり楽しいカメラであることは事実。 使用頻度を増やしていければ!!!

 

 

 

次回に続きます。 たぶん2か月後なんてことはないと思いますが()

 

 

 

ではでは~!

僕と写真の出会い①(~中学生まで)

どうも、み(仮)です。

 

前回の記事を書いた結果、体のいろいろなところの調子が狂ったので、方針転換して記事を書いていきます。 やはりあの内容を書くのは結構脳に負荷がかかりました…

 

 

 

というわけでタイトルの通り進んでいこうと思います。 本当は写真よりも長く続いている趣味から書こうかと思っていましたが、現時点で一番楽しめていることから書いた方が良いかな!と思った次第です。

 

僕の写真ライフはこのカメラから始まった

写真に本格的にハマったのは高校3年生からですが、カメラを持ち始めたのは中学1年の頃からで、実は意外と長く続いている趣味なのかもしれません。

 

ただその頃は本当に「家族旅行の時だけ使う」といった感じで、いたって普通でした。

 

細かいレビューはまたの機会に回すとして、そんな中学生の頃に使っていたカメラがこちらになります。

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Panasonic DMC-FS6です。 いわゆるPanasonicデジタルカメラブランドLUMIXのコンパクトデジタルカメラ(デジカメ)で、発売は2009年2月20日 もう13年も前のカメラです。

 

今となっては僕が所有(その内の2台は親が購入したので、厳密には僕のカメラではないです)している4台のカメラの中で一番小さく、一番軽く、一番古く、一番撮像素子のサイズが小さく、一番画質が悪く、唯一のCCDセンサー搭載機です。 スマホにも性能はほぼ負けています。 スマホに勝る点と言えば、若干ダイナミックレンジが広いことくらいでしょうか。

 

当時の僕は写真に対するこだわりは一切無かったので、「とりあえず記録する」ためのカメラでした。 旅行先でいいなと思ったものをとりあえず撮ったり、外出の際に利用した交通機関の記録をしたり…

 

 

で、この記事を書くために〇年ぶりにこのカメラを手に取り、僕がどんな写真を撮っていたのか見返してみたわけですよ…

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(永平寺)

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(御射鹿池)

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(岩屋堂)

 

 

 

 

もしかして…

 

 

昔の自分の方が上手かったんじゃないっすかねー(棒)

 

あと、

 

CCDセンサーの色が良いっっっっっっ!!!!!!!!!!

 

僕が今使っている機材(=全てCanon一眼レフカメラ)の撮像素子は「CMOSセンサー」という、デジタルカメラでは現在主流になっているセンサーです。

CMOSセンサーが普及する以前の主流のセンサーだったCCDセンサーは色が独特に出る特徴を持ち、やはりこのコンデジCMOSセンサーの色とは少し違う感じがしました。

 

 

先ほどの写真は2015年~2016年に撮影した写真たちです。 つまりは中学2年~中学3年の頃に撮ったものです。 この記事に掲載するために多少編集してあります。

 

で、この「Panasonicコンデジ」(ここ重要)にはWi-Fi機能」とかいう時代を先取りした機能はついていないので、Wi-Fi機能がついている「Canonの一眼レフ」(ここも重要)Wi-Fiでパソコンに写真を送れるかどうか気になったわけですよ…

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出来ました。

 

しかも、

 

Canon純正のRAW現像ソフト「Digital Photo Professional 4」で編集まで出来ましたwwwww

 

「SDカードに入っている写真」ならばCanonの他のカメラで撮った写真でもNikonのカメラで撮った写真でもSONYのカメラで撮った写真でもPanasonicのカメラで撮った写真でもWi-Fi転送できるものなんですかね… 謎です。

 

 

話を戻して、当時の僕はこの性能に満足していました。 というか今でも全然現役で行けそうですね(笑)

 

 

以上より、元々は「写真」の優先度は僕の中では低かったわけです。 転機はこちらも親が2010年頃に購入していた「ヤツ」の存在…

 

 

次回に続きます。

 

 

 

ではでは~!

親がストレッサー

どうも! み(仮)です!

 

まあ今回の記事はタイトルが全てです。 今後書く記事の土台程度の記事なので軽く読んでいただければ幸いです。 というか読むと気分を害するだけなのでタイトルだけ読んで頂ければ結構です。 この先の3000字くらいの文章は単なる僕の愚痴なので。

 

 

 

 

 

何個か前の記事にも書いた通り、小学校の頃から餃子を焼くことさえも親にキレられてきました。 中学生になってからは成績についての叱責がプラスされました。 親は僕よりも頭が良いことを良いことに、テストの成績が返却されるごとに親の前に正座させられ、3時間くらい説教されました。 中3の志望校を決めるときも毎日のように説教されていました。 時には日付を跨ぐまで。 

 

高校からは(僕がバカになったのも悪いですが)更にエスカレート。 受験期の時も高校受験の時以上に説教されていました。

 

大学生になってからは幾分マシになりましたが、撮影に行こうとする僕に向かって「なんでお前だけそんな良いところに行くんだ」、「このご時世に行くとか信じられない」……

 

僕に何か恨みでもあるのでしょうか。 最近では僕にとって不利な話題が出たらすぐに自分の部屋に行くようにしています。 聞いてもストレスが溜まるだけなので。 話を全部聞き続けた結果、倒れた過去があるので。

 

 

これが父親だけ、または母親だけだったら、多分こんな記事は書かなかったと思います。 どっちもだからこの記事を書き、また僕のこんなネガティブな性格が形作られたのだと思います。

 

いつもこんな感じです

最高にストレスが溜まる場面をご紹介しましょう。 ちなみに僕は数をこなした結果、もう慣れました(慣れるな)

 

まずは説教大好きな父親による単独攻撃の例です。 休日の午前中は大体これです。

 

僕の家では7時に起きると「起きるのが遅い」部類になります。 平日はともかく休日も。 で、朝食中や朝食後に説教が始まります。

「起床が遅かったことについて」の説教だけならまだ良いのです。 問題はここで「野球部の時も怠けてばっかりだったから試合にも出させてもらえなかったんだろ」といった過去の僕の負の記憶をわざわざ持ち出して更に長々と説教をすること。 前回の記事で書いた通り、僕は新体制になって早々にケガをしたため、怠けるどころではありませんでした。 そしてどんどん話が脱線していき、酷いときにはこれで午前が終わります。 父親は「説教」ではなく「教えてあげている」らしいので自分が悪いとは一切思っていないでしょう。

 

もう一個。 今度は両親からの同時攻撃の例。 両親が揃っていれば1日中いつでも起こり得ます。

 

父親の手伝いをせずに自分の部屋に籠ってネットサーフィンをしていると、そのあとの食事ではほぼ確実に何か言われます。 まず「お前が手伝わんかったから大変だったんだぞ」と嫌味から入るのがデフォです。 (ちなみに手伝ったら手伝ったで「やることが遅い」、「もっと働かんかい」が父親から飛んできます。)

ここで母親が参戦します。 例えば僕が眠すぎて昼寝していて、それを父親は見ていなかったとしましょう。 母親はここがチャンスとでも思うのでしょうか、これをわざわざ父親の前で話すのです。 そして父親はこのことについても「貴重な時間を昼寝するとか勿体ねぇだろ」と怒り、説教時間が延びます。 母親は止めるどころかどんどん付け足しをするので、僕はひたすら「はい」と言うか黙り込むことしかできません。 だって言われていることは悲しいですが真実なのですから。 でもこれで「せっかくの美味しい飯がお前のせいで不味いわ」と言われても……

 

 

 

「お前の親ってどんな感じなん?」と、どんなに信用している友達から聞かれても「朝起きれないと説教食らうで」くらいしか話してきませんでした。 こんな話を友達に言っても友達に迷惑がかかるだけなので。 今まで自分の心の中に封じ込めていましたが、まあこんな感じでいつも説教されています。 最近は朝起きれないことについての説教が多いですね。 これも起きれない自分が悪いのですが。 でもストレスで起きれなくなっているのはたぶん事実です。 あぁ負の連鎖…

 

趣味への攻撃

趣味である写真関連でもいろいろイヤミを言ってきます。 学校祭の話は前にしたので今回は割愛させていただきます。 知りたい方は下の記事の後半をお読みください。 先述した餃子の話もこの記事に書いてあります。

syumigatari-1.hatenablog.com

 

11月に購入したとあるカメラは「どうしても自分のお金で買いたかった」ものだったのですが、気持ちが先走り、ローンで買ってしまいました。 本当は親にバレないように買いたかったのですが、ローンで買うと自宅にしか配送できなかったので仕方ありません。 当然親にバレ、「そんなもん買う金があるなら学費払えよ」とか「カメラごときをローンで勝手に買うとか有り得ん、返品しろ」と言われました(前者は未だに言われます)。

 

もう20歳ですよ…?

 

僕は「なんでも撮る」をモットーにしてはいますが、基本は風景写真や飛行機や鉄道といった動きモノを撮るのがメインです。 なので外出しなければ何も撮れません。

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しかし僕の親は不幸にもこのコロナ禍で自粛警察になってしまいました。 また勉強もロクにしていない、成績絶賛下降中の弟が受験生なので余計にピリピリしています。 なので大学があるうちは「大学があるから」というただ一つの理由である程度撮影もできていましたが、今は特段の理由が無い限り外出できない状況です。 親の制止を振り切って外出して、帰ってきてから人権が無くなって雑用扱いされるのは自分が更に辛くなるだけなので。 

 

なので今は基本は家でバイトを探しながらニート状態です。 しかし親は「たまには外へ出ろよ」と言います。 じゃあ外へ出るか、とカメラを鞄に忍ばせて外出しようとすると、「一家を危険に晒す気か」、「今の世の中の状況が分からないのか」、「もし感染したら責任とれよ」……

 

 

はぁ… 

 

 

というわけで、所有している3台のカメラは単なる黒い物体と化しています。 先日も競馬を撮影するために友達にチケットまで取ってもらっていたのに、行く寸前で母親に上記のことをボロクソ言われて泣く泣く断念しました。 友達には本当に申し訳ない思いでいっぱいです。 んで、「親がこう言ったから」と申し訳なく友達に送りましたが、昼食前に父親から「まさか『親が行くなって言ったから行かない』なんて送ってないよな、『自分で行かないと決めた』って送れよ」と。 

 

自分は当然行くつもりだったのでこんなことを友達に送るわけがありませんし、責任をすぐ僕に移して、してやったりな顔をしていた親がとにかく憎かったです。

 

多分テレビの破壊と新聞の定期購読解約でもしない限りこのままですね(極論)

「お前はもう成人なんだから」と都合のいいところで言うくせにこの制限、まあ(父)親は普通に学生生活を送れたのでなんとも思っていないでしょうが(母親は高卒後就職、結婚後退職)、自分でもよく我慢できてるな、と思います。 まあ、今まで事ある毎に我慢の連続だったので、これも「慣れ」なのかもしれませんが。 慣れって本当に怖い。

 

今カメラをアホみたいにどんどん買おうとしていたりするのも、散々我慢させられた反動だと思っています。

 

 

僕の親が僕にしてきたことが正常なのか異常なのかははっきり言って分かりませんが、今回書いたことの5%くらいを話しただけでも周りの人たちがドン引きしているのを見る限りは異常なのでしょう。 子供は親を選べないので、こう言ったところで無意味ではありますが。

 

 

まあこれくらい書けばたぶん今後書く記事の土台にはなってくれると思うので、このくらいで締めておきます。 あぁ書き起こすだけでも頭が痛い……

 

 

ではでは~

(今のところ)人生で一番楽しかった時とは③

どうも! み(仮)です!

 

 

前回&前々回で、当時の私を支えてくれた2本柱について書き出しました。

 

syumigatari-1.hatenablog.com

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今回はなぜ「その時」が「人生で一番楽しかった時」となってしまったのかを自己分析してみます。

 

 

楽しかった=忙しかった?

2015年10月頃から2016年3月頃の自分に何があったのかを思い出してみると、

 

 

中学の3年間の中で

・一番成績が良かった時期

・塾も一番大変だった時期

・友人関係が一番不安定だった時期

・一番友人と遊んでいた時期

・部活での立場が一番低かった時期

 

 

ざっとこんな感じでしょうか。 つまりはあらゆることがいろいろ押し寄せてきて、非常に忙しかったのです。 この時期はほんとに成績上位勢と張り合えるくらいの学力があり、自転車で地元を駆け回ったのもその人たちと行ったのがほとんどでした。

 

 

塾は中1と中2で個別指導の塾に通っていて数学だけ受講していたのですが(講師はなぜか塾長でした)、中2スタート時に変わった塾長がなかなか厳しい人で、特に秋ごろから1週間でプリント10枚とか平気で出してくるようになりました。 他にやることも多かった中で授業当日になんとか終わらせていました。 でもそれのおかげでその時の数学はかなり良い点をとれていたと今思います。 あの塾長にあまり良いイメージは残っていませんが、これについては感謝したいです。

 

 

前々回の記事の冒頭に書いた通り、中2の最初はかなりの陽キャを演じていました。 転機はキャンプの時。 キャンプファイヤーでトーチトワリングをやると聞き、「せっかくならやるかぁ!!」と参加することに。 しかし知り合いはクラスメイトこそいたものの、顔と名前だけ知っている程度の人たちばかりでした。 練習を重ねていくうちに仲良くなり、いつしか他のクラスの人たちとも爆笑しあうほどになっていました。 トーチトワリングは成功に終わり、そりゃあもう感動ものでした。

 

ここで気づいたのです。 陽キャを無理して演じていて楽しいか、と。 もちろん陽キャ軍団の一員であったときもそれなりに楽しかったですが、本来の自分では無かったので悩み始めました。 そこから次第にクラスで暴れている人たちとは距離を置くようになり、自分の立ち位置について悩んだ末に、とある日の昼休みに教室でその陽キャの人たちが勢ぞろいの中で泣いてしまいました。 今のところしっかり泣いたのはこれが最後です。

 

救いだったのは1人で泣いていたわけでは無く、隣に肩をたたいて励ましてくれた友人がいたこと。 その人もなかなかの暴れん坊でしたが、中2の男子の勢力図は陽キャ軍団VSその友人&その周りバチバチに対立していたので、「暴れる」のベクトルが違いました。 友だち思いで、深い話も気軽に話せるような人でした。 ちなみにトーチトワリングで一緒に頑張った人たちはその友人の友達でした。

 

キャンプ以降はその友人たちと行動を共にする機会が圧倒的に増え、中学卒業後も、会う約束とかはしてないのにたまに会います(笑) 最寄りのコンビニでその友人がバイトしていたので、そこでもたまに会えました。

 

一番驚いたのが浪人生の時。

予備校が名駅だったのですが、名古屋駅で降りて改札を抜けようとしたときに「み(仮)じゃん!」って声をかけられたのです。 振り向いたらその友人でした。 マスクをしていたのによく分かったな~って会話を軽くしたのを覚えています。

 

中学を卒業して4年以上が経過していてもしっかり覚えてくれていた、僕はそれが一番嬉しかったです。 成人式に来ていなかったので会えなかったのが残念ですが、またどこかで声をかけられることを密かに期待しています(笑)

 

 

僕は中学生の時は軟式野球部でした。 僕のことを知っている人は「まさかお前が…?」と思うことでしょう。 

 

中2の時に夏の大会で中3が引退し、新体制で部活がスタートしました。 僕は数少ない左利きだったのでファースト(一塁守備)を任されることに。

 

しかし数日後。 捕球ミスで左薬指第一関節の腱が切れ、そのまま病院送り… 腱が癒着し、指を曲げるリハビリも終えたときには既に10月。 更に右股関節のリハビリまでやっていた結果、完全復帰は12月でした。 当然、この間の練習とえげつないほど組まれていた練習試合は全部出ていないので、同学年はおろか後輩にも圧倒的な差をつけられてしまいました。

 

当然後輩からもバカにされ、部活でのヒエラルキーは最底辺でした。 練習試合に出れるようになったのは中3の5月でした。 そこからは「代打の神」と呼ばれるほど、代打出場時の打率は高かったです。 練習試合ではありましたが代打ランニング本塁打も1本打ちました。 最後の大会が終わったときはそれが意外と(良い意味で)ネタにされ、ケガから戻ったときに相手すらしてくれなかった同学年の人が卒業前の部活挨拶の際に僕が後輩に話した後に握手をしてくれたのがしっかり記憶に残っています。

 

 

 

以上の通り、毎日が非常に忙しく、楽しかったことも辛いこともたくさんありました。 それにプラスしてコンビニやラジオの存在がありました。 だからこそ、その時の記憶が多く脳に残っているのだと思います。

 

 

 

美化され続ける、あの頃の記憶たち。

「あの頃」以降も忙しくて大変だった時期や楽しかった時期、辛かった時期は確かにたくさんありました。 でも「あの頃」には勝てませんでした。 

 

 

僕は中3に塾を変え、自分の学力よりも高い高校に受かってしまいました。 高1の初っ端から勉強についていけなくなり、また生徒のレベルも高かったのでなかなか友人もできず。 今も頻繁にやり取りしている2人は、高2でクラスが同じになってからの付き合いで、僕を写真バカへと生まれ変わらせた人たちです。 しかし深いつながりができたのはほんとにその2人くらいで、なんとなく高校を卒業してしまいました。  結局何かに真剣に打ち込むこともないまま…

 

浪人生の時は高校の時よりは記憶に残っています。 高校卒業直後に倒れてから常に体調が悪い中、ほぼ毎日予備校に通い続け、体調が比較的良い日には買い食いをする。 スーパーマーケットに行く楽しさ今も良く行き続けている場所にも出会えました。

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それがこの場所です。 ここについてのエピソードもまたいつか記事にしたいですね。

 

また、結果的には不合格でしたが、県外の国公立大学を受験するために一人旅をしたのもいい思い出です。

 

 

でも「あの頃」よりは記憶に残らなかった。 というよりは、「あの頃」の記憶が、当時ラジオから聴こえていた曲を聴くことによって何度も脳に上書きされ、どんどん美化されていってしまった、と言った方が正しいのかもしれません。 まあ「あの頃」はスマートフォンも持ってなければインターネットを使うこともほとんどなかったので、より鮮明に残っているのかもしれません。 いわゆる「思い出補正」ですね。

 

「あの頃」とそれ以降の圧倒的な違いは「記憶に残っている曲の数」、「心の余裕」の差だと思っています。 今でも「あの頃」の曲を聴くたびに美化されていきます。 たぶんこれは良くないことです。 どんどん「あの頃に戻れたら」という気持ちが強くなってしまっているのは、今後の人生に影響が出かねないと感じているからです… ちなみに浪人生の最後の方の記憶もだんだん美化されてきてしまっています。

 

 

考えが少しだけ変わり始めた、大学1年生。

では大学生である今はどうなのかと言われたら、普通に楽しいです。 浪人生の時はコロナの影響もあり、予備校のスタッフの人、講師の人としか話をしていませんでした。 なので元から無かったコミュ力は更に消えていました。

 

大学生になって、いろいろな束縛から解放されて気が楽になっているのも大きいですが、一番大きいのは今一番没頭している趣味である写真、そして写真部の存在。 究極のコミュ障の解決策の一つとして、大学では「僕=カメラバカ」というのを自分からアピールするように心掛けているので、写真についての相談や、写真を始める際にどのような機材を買えばいいのかといった相談をしてくれる人ができたのが嬉しかったです。 僕は素人なので「的確なアドバイスができているか」と言われたら微妙なラインですが…

 

写真部の存在は大きいです。 多分今年度だけで過去4年間で笑った回数を軽く超えています。 まあ写真部についての話は長くなりそうなので、また追々記事にしようと思います。

 

 

 

(順調に行けば)あと3年で就職。 その後の人生のためにも、「あの頃」の美化を止めて「新たな自分」にならなければならないと感じて日々を過ごしている次第です!

 

 

 

ではでは~!

(今のところ)人生で一番楽しかった時とは②(ラジオ編)

どうも! み(仮)です!

 

 

前回はコンビニ愛を軽く語ってみましたが、今回はもう一つの精神的支柱であったラジオについてです。 

 

↓前回の記事はこちらから!

syumigatari-1.hatenablog.com

 

 

さて、ラジオ。

聴いていたのはズバリ……

 

 

 

AM1053kHz、コールサインJOAR、CBCラジオォォォォォォォ!!!!!!!!!!

 

 

 

続きを読む

(今のところ)人生で一番楽しかった時とは①(コンビニ編)

どうも! み(仮)です!

 

まあ前回の内容はかなり暗い内容でしたので、すこし軽い話にしてみます(それでも前回の記事との関係が少なからずあるので、前半はやっぱり暗めであることには変わりないです…)。

 

 

僕が(今のところ)人生で一番楽しかった期間は中2の秋~中3終わりまでです。 西暦でいえば2015年10月~2017年3月、でしょうか。

 

中3の5月ごろからは今でも付き合いのある数少ない友人たちと出会えて楽しかったので、今回は中2の秋~その友人たちと出会うまでのお話です。

 

前回の記事の通り、中学生になって一層親からいろいろ言われるようになり、学校以外は次第に自分の部屋に籠る時間が増えていきました。 確かに学力は親が期待していたよりも低かったかもしれませんが、中学に入学して気持ち新たに突き進もうとしていた中学入学当初の私は夏休み前に儚く散っていき、陰キャ中学生として歩むことになります。 中2は早々にクラスのうるさい人たちと仲良くなり、ヤンキーの仲間入り寸前だった時もあります。 あの頃はひたすらうるさい人を演じてまあまあな発言力を持っていた一方で、だんだん「電池切れ」を感じるようになりました。  そして待っていたのは精神的な崩壊でした…

 

…以上が中学校生活の前半戦です。 以上のこともあり、だんだん「単独行動」というのが日常になっていきました。 そこで出会ったのが、コンビニとラジオでした。

 

 

ラジオについては次回に回すとして、今回はコンビニについての話です。

 

僕とコンビニ

僕とコンビニとの出会いは小5でした。 それまで親の送り迎えで行っていた英会話教室。 弟の手術のため、母親も弟と一緒に一週間寝泊まりすることになり、僕は英会話教室まで自転車で行かなければならない状況に。  そこから中2終了時に英会話教室を辞めるまで自転車で行くことになるわけですが…

 

道中にはいくつものコンビニがありました。 しかも屋号もたくさん(笑) 

 

 

最も愛したコンビニであったサークルKサンクスサークルKサンクスを駆逐したファミリーマートセブンイレブンローソン

 

コンビニに行くのは小1の時に1つ上の近所の子と一緒に最寄りのサークルKに行って以来。 一人で行くのは初めて。 最初はかなり緊張でした(笑) 最初に入ったのはもちろん最寄りのサークルK。 買ったのはなんだっけなぁ…、確かガーリックが結構効いてたフライドチキンだった気がします。 それを食べたときに世界が変わってしまいました。

 

 

 

 

あぁ…こんなおいしいものを、なぜ今までスルーしてきたのか…!!!!!!!

 

 

 

これしか感想はありませんでした。 この衝撃以降の暴走ぶりと言ったら…

英会話教室は毎週木曜日にあったわけですが、もはやその木曜日のために生きている人間になっていました。 そして木曜日、少し早い夕飯を食べ終わった瞬間にフィーバータイムが始まります!!!!!!!

 

 

行きは基本はどこにも寄らずに英会話教室へ(中2の夏ごろから行きにも寄るようになりました…)。 帰りがもう凄かったです。 まずはローソンに寄ってLチキとか当時販売されていたドーナツを買い食いして、次に寄ったセブンイレブンでも、当時友人の間でブームになっていたホイップドーナツを毎回のように食べ、その次に寄ったファミリーマートでホットスナックorスイーツを買い食いして、最後にサークルKに寄ってホットスナックorパンor人気だったシリーズ「シェリエドルチェ」のスイーツを食べて、ようやく帰宅…

 

 

最も酷いときにはこれを毎週繰り返してました(ガチ)。 酷いときは1日で800円近くコンビニに使っていた時もあります。 アホみたいな話ですが割とマジな話で、この頃の楽しみといえばこれとラジオしかなく、今でもこの2つに救われたと思っています。

 

 

だからサークルKがファミリーマートに吸収合併されると聞いた時や、めちゃくちゃ聞いていたラジオの放送終了を知ったときは心の支柱が外されたような感じがしました。

 

 

コンビニに限って言えば、今でも買い食い癖は抜けるはずもなく、中学生時代には行けなかったデイリーヤマザキミニストップまで手を伸ばしています。 更にはマックスバリュ平和堂といったスーパーマーケットへもよく行くようになり、むしろ悪化しています…(笑)

 

 

基本はパン目当てでコンビニやスーパーマーケットに行きます。 中でもデイリーホット(店内でパンなどを手作りするシステム)があるデイリーヤマザキは天国のような場所で、近くには名古屋市今池にあります。 

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ここで食べる今池あんぱんが最高なんだよなぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!

 

 

流石一番人気、もう昇天できるくらい美味しいです。 焼き立てパンを食べろや。

他にも今まで食べてきた中で昇天レベルのものはたくさんあったので、コンビニのカテゴリーでも作ろうかな~とかも考えています。

 

 

気づけば今までで一番テンション高い記事になってました(笑) この調子だと次回もテンション高めでお送りできそうです。

 

 

ではでは~!